平成

日本の元号

本項では、グレゴリオ暦西暦)の20世紀から21世紀にわたった平成時代についても記述する。

概要

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御により、皇位が今上天皇に継承され、翌1月8日に元号が平成に改められた。2019年(平成31年)に、天皇退位特例法に基づく今上天皇の退位(4月30日)と皇太子徳仁親王の即位(5月1日)が予定され、これに伴い平成は5月1日に令和に改められる見込みである[1]

現在の元号
元号名 期間 年数 通算年日数
漢字 読み 始期 現在
平成 へいせい 平成元年(1989年)
1月8日
平成31年2019年
4月23日
31年[注 1] 30年106日間

改元

歴代 読み 生年 御称号 践祚[注 2] 在位期間 続柄
第125代 Emperor Akihito 198901.jpg 明仁 あきひと 昭和8年(1933年)
12月23日(85歳)
つぐのみや
継宮
昭和64年(1989年)
1月7日
30年106日 第124代昭和天皇
第一皇男子

昭和天皇の大喪の礼・葬場殿の儀
1989年(平成元年)2月24日

昭和からの改元

経緯

1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇崩御にともない、皇太子明仁親王が即位した。これを受け、1989年(昭和64年)1月7日に元号法に基づき改元政令が出され、その翌日を「平成元年1月8日」とすることにより改元がなされた。元号法によって改元された最初の元号である。なお崩御を前提とした手続きは事前に行なえないため、改元の際は崩御当日に正式な手続きに入り、翌日に改元が行われた。崩御当日に電話で正式な嘱託を行った後の「元号に関する有識者会議」は約20分間意見交換しただけで、重々しい雰囲気の中で慌ただしく新元号は決められたという[2]。ただし、水面下で準備は進められており、1988年(昭和63年)9月には、元号は最終候補の3案に絞り込まれていた[3]

内閣内政審議室は昭和天皇崩御の日(1989年昭和64年)1月7日)の早朝、十ほどの候補から最終的に「平成」「修文しゅうぶん」「正化せいか」の三案に絞り、竹下登首相(竹下内閣)の了解を取った。その日の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と両院正副議長に「平成」「修文」「正化」3つの候補を示し、意見を求めた。この時、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、とっさに、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「MTSの後はHが据わりが良いでしょう」と言った[4][5]

その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し[6]、同日14時10分から開かれた臨時閣議において、新元号を正式に決定。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。

只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、『平成へいせい』であります— 内閣官房長官 小渕恵三

と言いながら、河東純一揮毫した新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた(#元号発表も参照)。なお、新元号の発表の際に、口頭での説明は難しいので、視覚に訴えるように「書」として発表したのは、石附弘秘書官のアイディアである[7]

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)[8]を受けた後、官報号外によって公布され、翌1989年(平成元年)1月8日から施行された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。

明治から大正、大正から昭和への改元の際と異なり[注 3]、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサを初めとするOAに伴うコンピュータプログラムの変更等を行うためと報道された。

提案者

最終候補の3案の一つであった「平成」を提案したのは、東洋史学者で東京大学名誉教授の山本達郎である[9][3][10]

内閣内政審議室長(当時)として新元号選定に関わった的場順三[9]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、宇野精一目加田誠の3氏の提案によるものだという(目加田が「修文」を宇野が「正化」を提案したことを後に認めている)[11]。『文藝春秋』での佐野眞一の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、それ以前に物故した諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている[11]

的場は、代わりの学者を秘密裏に探すため、文部省職員と2人だけで選定に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという[12]

渡部恒三によると、「平成」の元号は改元時の竹下登首相ら日本国政府首脳が決定前から執心していたという[11]。竹下が1990年(平成2年)1月に行った講演の際に、非公式ながら「平成」は陽明学者・安岡正篤の案であったと述べたとされる[13]。しかし、安岡も昭和天皇崩御前に物故しているため、彼の発案ということは有り得ない[14]的場順三は、「実際、『平成』の考案者は安岡正篤氏という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている[15]

典拠

新元号の発表時に小渕恵三が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通り。*漢文中、太字から元号が採られた

史記五帝本紀 帝舜
(内かに外る)
書経(偽古文尚書)』大禹謨地
(地かに天る)

「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である[16]。日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」()など、外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り[17][18]、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている[19]

なお、「平成」の決定の際には専門家から「出典箇所が偽書の偽古文尚書であり、相応しくない」とする意見もあった。

発表

小渕恵三内閣官房長官(当時、後に首相)が総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に『平成』と文字を揮毫したのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。

記者発表の20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知る。その後、河東自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボール風呂敷で梱包したものが小渕内閣官房長官の元へと運ばれた。河東本人談として、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのは上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりだったとも語っている。新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである[20]

小渕の秘書官である石附弘は、「大正」からの改元時の「昭和」の発表時にはラジオでは漢字の雰囲気を伝えられず、「光文事件」などの誤報もあり大衆の期待感が高まらなかったことを受け、テレビの生中継により「新時代への期待感や雰囲気」を醸成できると考えており、テレビ会見を重視していた[12]。揮毫した河東も「確たる未来と新時代への力強さを見せるため」あえて文字のかすれを抑えるなど映像が流れた際の見栄えを考慮していたという[12]。文字だけではなく披露する際の動作も事前に考えており、印象を残すため半紙を顔の横に掲げることにした[12]。また当初は半紙をアクリル板に貼り付ける予定だったが、直前にマスコミに相談したところフラッシュが反射して見えないとの指摘を受け、「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」の構成となった[12]

河東は2005年(平成17年)12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令および表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した[21]

発表後の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登と内閣官房長官の小渕に贈呈されたが、当時は公文書管理法が制定される前で奉書紙の取り扱いについても取り決めが無かったため一時は行方不明となっていた[22]。その後竹下の孫であるDAIGO(歌手、タレント)が竹下登の私邸に飾られていた奉書紙をテレビ番組で披露[23][24]したことで行方が判明し、国立公文書館が連絡を取り寄贈されることとなった[22]。これを受けて平成の次の元号の奉書紙は最初から公文書として扱うことが決定した[22]

国立公文書館では「平成(元号)の書」としてスキャン画像が公開されているが、原本は閲覧できない[25]。なお国立公文書館のショップではスキャン画像を元にしたクリアファイルが販売されている[26]

元号発表以前から存在した「平成」

「平成」発表後、それにちなんで命名された団体名や地名などは多い(後述の「平成を冠するもの」参照)。「平成」の選定過程で、政府は団体・企業や個人の名前に使われていないかを調査したが、インターネット検索も発展途上の段階であったため、元号と同じ漢字表記となる人名や地名の把握は不完全であった[12]

そのため、人名では「たいら しげる」という読みの男性や、地名では「へなり」と読む岐阜県武儀町(現・関市)の小字などが、元号の発表以前から存在した「平成」として確認されている。元号の選定に携わった的場は中華料理店の屋号まで調べていたが小字までは手が回らず、これらの偶然の一致について「仰天した」と回想している[27][12]

このほか、三重県埋蔵文化センターが開催する「おもろいもん出ましたんやわ展」の平成27年開催分で、松阪市の朝見遺跡から出土した「平成」と書かれた平安時代中期の墨書土器が公開された[28][29][30][31]櫛田川の氾濫を鎮めるための祭事に使われたと推定している。

平成からの改元

経緯

2016年(平成28年)8月8日に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(国民に向けたビデオ・メッセージ)が発表され、これ以降、譲位に関する議論が活発化した。2017年(平成29年)、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の法案が、内閣により国会の常会(通常国会)に提出され、衆議院と参議院の両院で原案の通りに可決されて6月9日に法律となり、同月16日に公布された[32]。同法第二条は「天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。」と定め、施行期日は附則第一条で、公布の日から起算して3年を超えない範囲内において政令で定める日とされた[33][32][34]。2017年(平成29年)12月1日に開催された皇室会議、同月8日の閣議で、2019年(平成31年)4月30日をもって天皇が退位することが決定された[注 4]。12月13日、同法の施行期日を平成31年4月30日とする政令が公布され[35]、同法の規定によって天皇が同日に退位し皇太子が翌5月1日に即位するという日程が決まった。この皇位の継承を受けて、元号法の規定に基づき、5月1日に元号が改められる見込みである。

2019年4月1日、日本政府は平成に代わる新しい元号を「令和」(読み方:「れいわ」)と発表[36]。「昭和」から「平成」への改元時を踏襲して、最初の発表は菅義偉内閣官房長官により行われ、その後に安倍晋三首相による談話が発表された。 同日、元号を改める政令が公布され、同日付の『官報』に掲載された(施行期日は5月1日)[37]。「令和」の読み方は同日の内閣告示で示された[37]